「天誅」の名のもと、数々の凄惨な事件に手を染め、幕末の京都を恐怖に陥れた土佐の岡田以蔵。
しかし、彼の残した辞世の句は、「人斬り以蔵」と呼ばれ、人々に恐れられたイメージとは似ても似つかない繊細で美しい歌です。
今回は、 岡田以蔵の辞世の句を中心に、坂本龍馬との関係や愛刀も含め、岡田以蔵の生涯を掘り下げてみていきたいと思います。
目次
岡田以蔵が辞世の句とは?詠んだ背景は?
岡田以蔵の辞世の句は2つのバージョンが存在!
岡田以蔵の辞世の句には出典が異なる2つのバージョンが伝わっています。
以下に挙げているように、両句とも上の句は全く同じですが、下の句の表現が少し違っていますよね。
君が為 尽くす心は 水の泡 消にし後は 澄み渡る空
出典:寺石正路「土佐偉人伝」
君が為 尽くす心は 水の泡 消にしのちそ すみ渡るべき
出典:保古飛呂比「佐佐木高行日記」
実際に以蔵が詠んだ句はどちらかだったかの特定は、今となっては困難ですが、いずれも 彼の深い悲しみが伝わってくる辞世の句です。
以蔵は28歳の若さでかえらぬ人に!
岡田以蔵の辞世の句は、 慶応元年(1865年)閏5月11日(新暦7月1日)に処刑される際に詠まれたと伝わっています。
以蔵は、尊王攘夷を掲げ 武市半平太が作った土佐勤皇党という結社に入り名をあげた人物で、「天誅の名人」とも呼ばれました。
しかし、酒と色におぼれて身を持ち崩し、お金に困って京都で商家に押し入ったところを捕まり故郷の土佐に強制送還されます。
土佐では多くの勤皇党のメンバーが捕まっていた折で、以蔵も投獄され激しい拷問を受けました。
他の同志がかたくなに口を閉ざす中、拷問に耐え切れず、以蔵は勤皇党が関与した事件を次々と自白。
処刑される前、師と仰ぐ武市半平太に「よろしく伝えてほしい」と言い残し、以蔵の厚顔ぶりに武市が憤慨したとも伝わっています。
岡田以蔵の辞世の句の意味と解釈とは?
以蔵の辞世の句の上の句の意味と解釈
岡田以蔵の辞世の句の 上の句「君が為 尽くす心は 水の泡」から、先ずは詳しく考察していきましょう。
「君が為」の「君」は、師であり、土佐勤皇党を結成した武市半平太(瑞山)です。
岡田以蔵は、尊王攘夷の名のもと、師である武市に命令されて数多くの暗殺の実行犯となりました。
ですが、自らの手を汚し、尽くしたにもかかわらず、 武市の以蔵への評価は低く、叱責されることも多くあったそうです。
以蔵の自白に対し、武市は「以蔵は誠に日本一の泣きみそであると思う」と冷たく突き放したといわれています。
武市は反対されたとされますが、拷問に屈し仲間の名前を自白した以蔵を危険だとし、 毒入り団子を獄中に差し入れ口を封じる計画までありました。
「水の泡」の表現から、武市のために尽くしてきた自分の忠誠心は全て意味のないものだったという 以蔵の深い失望が伝わってきます。
2通りある下の句の意味と解釈
前述のとおり、岡田以蔵の辞世の句の上の句をうける 下の句は以下の2通りが伝わっています。
①消にし後は 澄み渡る空
②消にしあとそ(ぞ) すみ渡るべき
両方の句に共通する「消にし後/あと」の主語は、武市に尽くしてきた以蔵の忠誠心でしょう。
自分の中で忠誠心が消えたとの意味か、武市に否定され消えてしまったと言っているのか特定は難しいですが、尽くした相手に見捨てられた絶望が読み取れます。
①の句では、武市への忠誠心が消えた(または否定された)後には、 ただ澄み渡る空だけが残ってる、と解釈できます。
②では「すみ渡る」対象が「尽くす心」と考えられるので、忠誠心を否定され見捨てられてた後も自分の心に曇りはないとの意味ではないでしょうか。
見捨てられてなお、師を慕っているとも解釈できますが、自分の人生自体を突き放し、あきらめている 空虚な心情ともとらえられます。
岡田以蔵が辞世の句から「人切り以蔵の」生涯を振り返ると?
身分が低く無教養だったとの通説には疑問がある!
岡田以蔵の生涯は資料が少なく、フィクションと真実が混在している部分が少なくありません。
貧しい家の出で教養がなく、皆に見下されていたとの説がありますが、実際は下級とはいえ郷士の出ですから 人並みの教育は受けていたとされています。
以蔵が詠んだ辞世の句からみても、全くの無教養な人物とは考えにくいでしょう。
抜きんでて教養豊かとはいえないまでも、言葉の選び方や表現には、 彼のナイーブで繊細な内面が垣間見えます。
同郷である坂本龍馬のような時代を見極める抜きんでた先見の明などはなかった人物です。
しかし、ただ無学で粗暴なだけの人斬りとも思えない、繊細さが辞世の句から見て取れるのではないでしょうか。
以蔵の破滅型の人生は内面の弱さにあった可能性も!
低い身分で無教養だったとの通説は疑問ですが、武市半平太の指示とはいえ、岡田以蔵は数多くの凄惨な事件に手を下しました。
以蔵は、多くの人を斬り酒と女で身を持ち崩したのち、尽くした人に見捨てられ無念のうちにこの世を去るという 典型的な破滅型の人生を送っています。
しかし、以蔵が酒と女におぼれた原因は、多くの人を斬った罪の意識からの逃避であったのかもしれません。
拷問に耐えられず自白をした事実や彼が残した辞世の句からみても、以蔵はそれ程意志の強い人間ではなかったのでしょう。
以蔵が天誅を行ったのも、高い志からではなく、ただ 慕っている武市に暖かい言葉をかけてもらいたかっただけだったのかもしれません。
岡田以蔵の愛刀や坂本龍馬・勝海舟との関係とは?
岡田以蔵の愛刀は坂本龍馬ゆかりの「肥前忠弘」!
短い生涯の中で岡田以蔵は、師である武市半平太以外にも、様々な幕末の偉人と交流があり、 同郷である坂本龍馬もその一人でした。
以蔵と龍馬は幼馴染であったともいわれ、真偽は定かではありませんが、以蔵の最期を聞いた龍馬は声をあげ泣いたとも伝わっています。
以蔵の愛刀であった 「肥後忠弘」も、龍馬ゆかりの名刀でした。
「肥後忠弘」は戦国時代末期から8代続いた名工で、以蔵が所持していた刀は初代の作だったのではないかと考えられています。
坂本家所蔵だった名刀が以蔵に渡った経緯はよくわかっていません。
しかし、龍馬自身が以蔵にかしたとも、龍馬の兄が贈ったともいわており、 二人に交流があったのは事実とされています。
勝海舟からはフランス製のピストルも贈られている!
岡田以蔵は坂本龍馬の依頼で、京都で 勝海舟の護衛をしてた時期もありました。
京都で刺客を返り討ちにした以蔵をたしなめた勝に「俺がいなければ先生の首が転がっちょったやろ」と返して勝をうならせたとの逸話も残っています。
事件の後、勝は以蔵に フランス製のピストルを贈っており、二人の関係は極めて良好であったようです。
しかし、以蔵の武市への忠誠心は強く、土佐勤皇党から離れるよう諭した勝のもとを結局は去ることになりました。
もし勝海舟の元にとどまっていたら、岡田以蔵は全く違う人生を送っていたかもしれず、悔やまれてなりません。
岡田以蔵の辞世の句から「人斬り以蔵」の魅力を考察!
岡田以蔵は、略歴だけを見ると 「人斬り」としての側面がクローズアップされがちです。
しかし、以蔵は、おそらく血も涙もないただの「人斬り」ではなかったのでしょう。
幕末を代表する偉人である坂本龍馬や勝海舟も、以蔵に目をかけ、手を差し伸べようとしていた様子がうかがわれます。
ですが、以蔵は、初めて自分を認めてくれた 武市半平太と別の路を歩むことをよしとしませんでした。
武市を一途に慕う一本気で不器用な生き様が、今なお多くの人の心をひきつける以蔵の魅力です。
京都で捕まった経緯や自白のエピソードから察するに、内面的にもろい部分が以蔵には少なからずあったのでしょう。
ですが、剣術の才能を活かせず、人生を踏み外していく 危うさやもろさもまた以蔵の魅力といえます。
岡田以蔵は、大志を抱き、日本を動かすような器は持ち合わせていませんでした。
しかし、もし師事した人物が武市ではなく、龍馬や勝であったなら、以蔵には違った人生があったかもしれません。
岡田以蔵の辞世の句をより深く理解できるおすすめの本は?
「人斬り以蔵」 司馬遼太郎著
史実とは異なる部分も多いといわれる作品ですが、低い身分であるからこそ何者かになろうともがく 以蔵の屈折した心理描写が絶妙。
50年以上前に書かれた作品ですが、司馬バージョンの以蔵像は、多くのドラマやゲームの以蔵像の元になっており、以蔵ファンには、必読の名作ですよ。
「正伝 岡田以蔵」 松岡司著
「正伝 岡田以蔵」は様々な資料をもとに考察された以蔵の人生がつづられている良質の伝記です。
人気ゲームとのコラボでも話題となった作品で、史実に基づき、以蔵の生涯や人柄を理解することができるおすすめの秀作となっています。
岡田以蔵の辞世の句から幕末に思いをはせてみよう!
という事で、岡田以蔵の辞世の句の意味と解釈を中心に、以蔵の生涯や最後をご紹介しましたがいかがでしたか。
美しくも悲しい以蔵の辞世の句から、彼の数奇な人生に思いをはせて頂ければ幸いです。
以上、「岡田以蔵の辞世の句が悲しくも美しい!坂本龍馬との関係や愛刀、生涯と最後を徹底検証」でした。