細川ガラシャは、数奇な運命に翻弄(ほんろう)されながらも気丈に生き、 壮絶な辞世の句を残した女性です。

戦国の世を気高く生き抜いた細川ガラシャの辞世の句はどういった背景で読まれ、どんな意味を持っているのでしょうか。

今回は、 細川ガラシャの辞世の句について、歌の意味や背景から生い立ち、夫や子供など彼女の生涯を詳しくご紹介していきたいと思います。

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細川ガラシャの辞世の句とは?

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の

花も花なれ 人も人なれ

辞世の句の意味

散り時をわきまえているからこそ、世の中の花は花として美しい

私も人として、そんな風にありたいと思う

細川ガラシャは、1600年7月17日(新暦8月24日)、 自害を決意し上記の辞世の句をしたためました。

女性らしい、たおやかな表現の中にも、凛とした強さと気品感がじられる和歌です。

散り時を知ることの大切さを口で言うのは簡単ですが、実践するのは簡単ではありません

細川ガラシャは、散り時をさとって覚悟を決め、実行に移す強さと潔さを持った女性だったのかもしれませんね。

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細川ガラシャが辞世の句を詠んだ背景とは?

細川ガラシャが辞世の句を詠み、この世を去ったのは彼女が36歳(37歳とも)の年でした。

夫の 細川忠興(ほそかわただおき)は、徳川家康に従って関ケ原の戦いの幕開けとなる「会津征伐」に出陣中。

大阪の屋敷にいたガラシャは敵方の石田三成により人質にされそうになります。

忠興は自分の留守中、ガラシャの名誉に危険が生じた際は、家来一同、自害するよう日頃から命じていました。

1600年7月16日朝、ガラシャは石田軍の使者を拒絶したため、翌17日、屋敷は軍勢に取り囲まれてしまいます。

家臣から状況を伝えられたガラシャは、屋敷にいた侍女や婦人を集めて先に逃がした後、 夫の命に従い自害を決意。

キリスト教徒だったガラシャは、自分で命をたつことを禁じられていたため、家老に長刀で胸を突き介錯(かいしゃく)するよう頼みました。

自害後、ガラシャの遺体が残らないようにと、屋敷に爆薬を仕掛けたうえで火がつけられ、壮絶な最期であったと伝わっています。

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辞世の句で振り返る細川ガラシャの生涯1:生い立ち

細川ガラシャの本名は、 明智玉(あけちたま)といい、書物によっては、珠、玉子(珠子)とも伝わっています。

細川ガラシャこと明智玉は、1563年に明智光秀の三女として越前の国(現在の福井県)で生まれました。

明智光秀の正室であった母、煕子(ひろこ)は、変美しい女性で、娘のガラシャも母親に似て美女だったといいます

明智光秀は、元々、織田信長の義父、斎藤道三の家臣でしたが、道三が息子との争いに敗れ自害したため浪人生活を余儀なくされました。

光秀と煕子の夫婦仲は非常に良かったものの、朝倉家、足利家と仕官先を変え、織田家に落ち着くまで経済的には困難な時期にあったようです。

ガラシャは光秀が朝倉家にいたとき誕生しましたが、生活は苦しく、宴の手配の金策に困った光秀を助けるため煕子が自分の髪を売ったとの逸話も残っています。

辞世の句で振り返る細川ガラシャの生涯2:夫

細川ガラシャは、1578年、15歳(16歳とも)の年に織田信長のすすめで、同じく織田家の家臣である細川幽斎の嫡男、忠興(ただおき)と結婚しました。

ガラシャと同い年だった細川忠興は、和歌・絵画・茶道などに造詣が深い文化人でしたが、気性が激しく短気な性格だったようです。

ガラシャも忠興に負けず劣らず、 気性が激しくプライドの高い女性だったと伝わりますが、忠興の愛情は深かったとされています。

ある時、忠興は、妻であるガラシャの美しさに見とれた庭師に怒り、手打ちにしてしまいました。

ガラシャは夫をいさめるため、返り血が付いたままの打掛(うちかけ)を何日も着続けたといいます

ガラシャの無言の抵抗に 「お前は蛇のように執念深い」と忠興が文句を言うと、ガラシャは 「鬼の女房には蛇がお似合いでしょう」と返したとか。

ガラシャの勝気な性格がうかがわれるとても興味深いエピソードですね。

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辞世の句で振り返る細川ガラシャの生涯4:本能寺の変

辞世の句からもわかる通りガラシャは気丈な女性でしたが、父の明智光秀が起こした 本能寺の変が彼女の運命を大きく変えます。

1582年、光秀が本能寺で織田信長を裏切り自害に追いやったのは、ガラシャが忠興と結婚してわずか4年後のことでした。

当時、宮津城で暮らしていた二人の間には長女と長男がいましたが、反逆者の娘のレッテルをはられたガラシャは忠興に離縁されても当然の状況になります。

忠興がガラシャをかばって離縁は免れたものの、ガラシャは丹後地方の味土野という場所に隔離され、 幽閉生活を送ることに。

2年後の1584年、羽柴(豊臣)秀吉の計らいもあり、ガラシャは幽閉生活からやっと解放され宮津城に戻りました。

辞世の句で振り返る細川ガラシャの生涯5:キリスト教

幽閉から解放されて2年後の1586年、ガラシャは宮津から 大阪の細川家の屋敷へと引っ越し、初めてキリスト教と出会います。

忠興からキリシタン大名として知られる高山右近の話をきいて、キリスト教に興味を持ったガラシャは、程なく改宗してクリスチャンに。

ガラシャが改宗した動機はわかっていませんが、忠興が側室を迎えたため夫婦仲が冷え切っていたことが関係しているともいわれます。

キリスト教に改宗した際に授けられた 洗礼名がガラシャ(Gratia)でした。

以前は気性が激しかったガラシャですが、クリスチャンになってからは忍耐強く穏やかな性格になあったと伝えらえています。

ガラシャは、忠興が5人の側室を持つと言い出したため離婚を望んだものの、キリスト教の教義に従い思いとどまりました。

辞世の句で振り返る細川ガラシャの生涯6:子供・子孫

ガラシャは、細川忠興との間に3男2女の子供を授かりました。

細川家はガラシャとの間に生まれた三男忠利が継ぎましたが、7代当主である細川治年が若くしてこの世を去ります。

その後、忠興が側室との間にもうけた四男の血筋である細川斉茲(なりしげ)が養子に入ったことから細川家でのガラシャの血筋は7代で途絶えています。

熊本藩細川家の血筋として知られる元首相の細川護熙氏は、したがってガラシャの血はひいていません。

しかし、稲葉一葉に嫁いだ三女の多羅(たら)のの血筋は、 第120代天皇である仁孝(にんこう)天皇につながっています。

仁孝天皇は、明治天皇の祖父にあたる人物なので、現在の上皇陛下や天皇陛下をはじめ皇室の血を引く方々は細川ガラシャの子孫ということになりますね。

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辞世の句で振り返る細川ガラシャの生涯7:お墓

ガラシャが辞世の句を残し自害したのち、宣教師のオルガンティノ神父により堺のキリシタン墓地にガラシャの遺骨は葬られました。

ガラシャの最期から一年後、忠興は妻の生前の信仰を尊重して 教会葬を行い、自らも参列しています。

夫婦仲は冷え切っていたとされていますが、忠興はガラシャへの愛情は無くなってはいなかったのかもしれませんね

ガラシャの墓所とされる場所は、現在、数カ所存在していますが、以下の3カ所が有名です。

細川ガラシャのお墓の場所

①大阪 祟禅寺(そうぜんじ) 大阪市東淀川区

教会葬ののち、忠興によって遺骨が改めて葬られた場所。

②京都 大徳寺塔頭・高桐院(だいとくじたっちゅう・こうとういん) 京都市北区

忠興が父親のために建立した寺院で、ガラシャと忠興二人の墓塔である春日灯籠がある。

③熊本 泰勝寺跡(たいしょうじあと) 熊本市中央区

肥後隈本藩主細川家の菩提寺で、元興が父の追善供養に建立。

子孫によって営まれたガラシャと元興、二人の墓が現存している。

戦国の世に数奇な運命をたどったガラシャに思いをはせ、お墓を訪れてみてはいかがでしょうか。

細川ガラシャをより深く理解できるおすすめの本は?

細川ガラシャのおすすめの本1:『細川ガラシャ夫人(改版)』三浦綾子

細川ガラシャの生涯を読みやすい文章で詳細につづった著者初の歴史小説

愛と信仰に生きたガラシャの人物像が楽しく理解できるおすすめの 上下巻セットとなっています。

細川ガラシャのおすすめの本2:『細川ガラシャ』加来耕三

細川ガラシャの人生を漫画にしたコミック版日本の歴史シリーズの一冊です。

きれいな絵でわかりやすくガラシャの生涯が描かれていて、 大人も子供も楽しく読める作品ですよ。

辞世の句から細川ガラシャの数奇な運命を振り返る!

という事で、細川ガラシャの辞世の句について、読まれた背景からガラシャの生涯まで詳しくご紹介しましたが、いかがでしたか。

ガラシャが壮絶な辞世の句や意味と併せて、彼女の魅力を知る手立てにお役立てくださいね。

以上、「細川ガラシャの辞世の句の意味が壮絶!読まれた背景から夫や子供、生い立ちも紹介!」の記事を紹介しました。

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